松本人志の話術でさりげなくすごいところ
ガキの使いのオープニングトークやら、音をワントーン高くすることで削除回避をしている水曜日のダウンタウンやらである。
彼のトークがすごいことについて今更話すこともないかもしれないが、ちょっとだけ書いてみたいと思う。
今日もいつも通り、寝転びながらYouTubeを見ていると、ある松本のトークを発見した。
それは、「人志松本のすきなものの話」という、芸人が各自好きなものをもちより、それについて熱く語るというシンプルな内容の番組だ。
しかし、シンプルであるが故にトーク力がモロに出てしまう、恐ろしい番組である。
ある回で、松本が好きなものとして取り上げたのは「ザ・ノンフィクション」という番組である。
3分半ほどの動画なのでぜひ見てほしい。
そして以下が実際の動画である。
全体としては少々長いが、
2'45から帰省のシーン
5'20~8'30が三味線を弾くに至る場面だ。
一見すると松本の話した通りのストーリーである。
しかし、微妙な差異がある。
そこにこそ、松本の話術のすごさが隠されているのではないかと思う。
松本のトークとのもっとも大きな違いは、元三味線先生の通称”おやっさん”が母としていた、死んだら墓石の前で三味線を弾くという「約束」が明かされるタイミングである。
実際の「ザ・ノンフィクション」の動画では、三味線を箱から取り出す前に「約束」について言及されている。
ここで松本のトークを見直してみよう。
2'45あたり、
本来であれば「約束」について言及されているチューニングの場面でも、松本は「約束」のことについて明かさない。
しかも、明かさないだけではなく、「どうすんにゃろ、どうすんにゃろ」とまくしたてる様に言って、あたかもその場面では三味線を弾く約束が明らかにされていなかったかのようにふるまっている。
もし、実際の「ザ・ノンフィクション」の動画通り三味線を箱から取り出すの前の段階で「約束」について明らかにしてしまっていたらどうだろうか?
約束していたこと、そしてそれが実現されたことが話の一番の盛り上がりどころであるにも関わらず、その間に組み立てやらチューニングやらの話が挟まることで、墓石の前で三味線を弾く場面にすぐに繋がらず、中途半端な盛り上がりで終わってしまっていたことだろう。
少し順序を変えるというさりげない工夫をすることで、自分の感情を聞く人にもっとも印象に残る形で伝えられるところにすごさがあると思う。
“依存”しないなんてそもそも不可能
何かに“依存”していない人間なんて一人もいない
“依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。何かに依存してない人間がいるとしたら、それは死者だけですよ。いや、幽霊が出るところを見たら、死者だって何かに依存しているのかもしれない。この世にあるものはすべて人間の依存の対象でしょう。アルコールに依存している人間なんてかわいいもんだ。血と金と権力の中毒になった人間が、国家に依存して人殺しをやってるじゃないですか。連中も依存症なんですよ。たちのわるいね。依存のことを考えるのなら、根っこは“人間がこの世に生まれてくる”、そのことにまでかかってるんだ。
これは中島らもの「今夜すべてのバーで」の主人公であるアルコール依存症の患者が言ったセリフだ。
一般的に「依存症」というと、アルコール依存症や薬物依存症を連想する。
彼らはアルコールや薬物がなければ、まともな精神状態を保てず日常生活もままならない。
依存の対義語は自立である。
僕たちは、「自立」した個人はそんなものに依存しないと生きていけない人たちをバカにする。
しかし、そんな一見「自立」した個人のような僕たちも結局何かに依存して生きてるんじゃないか?という問いを投げかけたのが冒頭で引用した文章である。
人は依存せずには生きられない
「依存」の辞書的な意味は「他のものによりかかり、それによって成り立つこと。」である。
果たして、全く他のものによりかかっていない、「自立」という状態が可能なのだろうか?
答えは確実にノーである。
たとえば、生きていくためには、お金が必要だ。
それを得るためには必ず人との交流が必要であるし、それがなければ食料さえも手に入らない。
この社会は相互関係で成り立っているのだ。
それゆえ、完全に自立している状態というのはありえない。
しかし、アルコールや薬物の依存症は精神面の依存である。
社会のなかで完全に自立するのは無理でも、精神面での自立は可能ではないだろうか?
しかし、これも不可能だと思う。
アルコールや薬物はもちろん、冒頭で引用した文章にある、金や権力も依存の対象になる。
それらに依存していないという人でも、何かの判断を下すとき、自分の知識や経験を活用する。
それも極端に言えば、知識や経験に「依存」しているとはいえないだろうか?
なぜなら、何かの判断を下すとき、自分の不安な精神が知識や経験をあてにしており、それによって下された判断は知識や経験によって成り立っていると言えるからだ。
これは「依存」の定義に当てはまる。
知識や経験に「依存」するのは、アルコールや薬物に依存するよりましに思えるかもしれない。
しかし、それさえも足場がしっかりしているとは言いがたいのではないだろうか。
たとえ、知識が科学に裏打ちされたものであったとしても、それが絶対ではないことは歴史が何度も証明している。
正しい確率が高いというだけであって絶対というわけではない。
そもそも、自分が知識を正しく理解しているのかどうかも怪しい。
むしろ知識そのものが間違っているより、自分の理解が間違っている可能性の方が高いだろう。
また、経験に「依存」するときは、過去に依存していると言える。
しかし、過去正しかったことが明日も正しいとは限らない。
七面鳥は364日エサを与え続けられるが、クリスマスの日には首を切られてしまうのだ。
僕らは生きてる限り、何かに依存しないわけにはいかないが、これに依存しておけば絶対安心だ、みたいな対象もない。
それでも、自分なりに正しいと思うものを探して少しずつ前に進んでいくことが僕たちに出来ることなんじゃないだろうか。
普通の自己中な人は全然「自己中」さが足りてない
自己中は自己中じゃない??
一般的に自己中な人と言えば、人の意見に耳を貸さなかったり、集団で行動するときに周りのことを考えず、自分勝手な行動をとったりする人のことを指します。
けれども、こういう人ってほんとは「自己中心的」な人ではないんじゃないでしょうか?
というより、自己中さが足りてないと思います。
たしかに、自分勝手な行動は自分の利益を一番優先させていますが、それが原因で他の人に嫌な思いをさせたり、場合によっては敵を作ることにもつながります。
そうすると、自分勝手な行動をとったその時はいいものの、それ以降の人間関係に支障をきたし、仲間外れにされたり、最悪いじめられたりするかもしれません。
そうなった場合、自分勝手な行動で被害を受けるのは未来の自分です。
自分のためにやった自己中心的な行動が、結局未来の自分自身を苦しめてしまうことになるのです。
そう考えると、一般的に「自己中」と言われる自分勝手な人たちは、実は全然自分のためになることをしていないということになります。
長期的な視点を持った真の自己中になろう
自分勝手な行動をとる人に足りていないのは、未来の自分が受ける被害を想定する長期的な視点です。
それを欠いたまま、未来の自分をほったらかしにして、今ここの感情を過度に優先させることで、自分勝手な行動をしてしまいます。
長期的な視点をもち、未来の自分も自分であるということを認識していれば、協調性を持ち、人間関係を良好に保っていた方がいいことはすぐにわかります。
しかも、これがより根本的なことですが、自分勝手なことをして人と対立して気分が悪いよりも、仲良くなった方がお互い楽しいことはまちがいありません。
まとめると、その場の感情だけに支配されて、目の前のことしか見えずに自分勝手な行動をとる人は、未来の自分を苦しめてしまっており、かつ、コミュニケーションから得られる楽しさも放棄してしまっているため、偽の自己中ということができます。
一方で、未来の自分も自分であるという長期的な視点を持っており、かつ、コミュニケーション自体に喜びを見出しているため、人間関係を悪くするようなことはしない人は真の自己中といえるでしょう。
これはもはや、自己中というのも違う気もしますけど(笑)
つまり、何が言いたいかというと、徹底して自己中になれば、自分を大切にして、相手を思いやれる人になれるんじゃないかということです。
以上、読んでいただいてありがとうございました。
ひろゆきの「最悪シミュレーション」はたしかに「無敵の思考」かもしれない
ひろゆきの「無敵の思考」とは?
2ちゃんねるの創設者として有名な西村博之、通称ひろゆきが「無敵の思考 誰でも得する人になれるコスパ最強のルール21」という本をだしました。
ひろゆきといえば、討論番組などで相手を言い負かす、いわゆる「論破」のイメージが強いのではないでしょうか?
その言動には賛否両論あるものの、人とは違った彼独自の考え方をしていることは確かです。
この本では、そのひろゆき独自の思考法をかいま見ることができます。
なかでもおもしろかったのが、「最悪シミュレーション」という考え方です。
「最悪シミュレーション」とは、なにかについて考えるときに、文字通り最悪のパターンを想定しておくということです。
具体例をあげると、ひろゆきは日本が破滅することまで想定しているらしいです(笑)
これは一見すると、「ネガティブ思考」のように思えますが細かく見ていくと違います。
ネガティブ思考とは、これから起こるできごとに不安を覚えて、感情的にも落ち込んでしまうことです。
一方で「最悪シミュレーション」は、これから起きる可能性のある最悪の出来事を想定してはいますが、それによって落ち込んだり悲観的になっているわけではありません。
単にそういう可能性もありうると認識しているだけなのです。
ネガティブ思考は感情的に落ち込んでしまっているため、どうせなにやってもしかたないと、なげやりな気分に陥ってしまいがちです。
それに対して、「最悪シミュレーション」は単に可能性を認識しているだけなので、精神的に落ち込むことはありません。
逆にこういうメリットがあると、ひろゆきは言います。
「想定よりも悪かった」ということがほとんどなくなるので、どんなことがあっても幸せに感じることができます。
人は、予想していたことよりも悪いことが起きると失望します。けれど、ちゃんと最悪まで考えておくと、その覚悟がすでにできているので、そこまで大きなショックを受けません。
そうすると、ものごとがうまくいったときに、すごくトクした気分になれます。
「最悪シミュレーション」は「ポジティブ思考」と「ネガティブ思考」を乗り越えたもの
書店に行ってもポジティブ思考を勧めるたぐいのものが多く見受けられます。
しかし、ポジティブ思考は期待しすぎることにつながって、その分がっかりすることが多くなってしまうんではないでしょうか?
かといってネガティブ思考はさっき説明したように、感情的な落ち込みを伴ってしまいます。
そう考えると、それらの弱点を克服した「最悪シミュレーション」は確かに「無敵の思考」といえるのかもしれません。
この本には他にもおもしろい考え方がたくさん載っているので、ぜひ一読を。
「ハドソン川の奇跡」に見る、プロフェッショナルとは何か
天才にしか人並みはずれた仕事はできないのか?
2016年に「ハドソン川の奇跡」という映画が公開された。
この映画は、2009年に実際に起こった事故をもとに制作されている。
離陸直後の飛行機が、バードストライク(鳥と衝突すること)によって両エンジンが停止、パイロットのとっさの判断で、ニューヨークを流れるハドソン川に緊急着水をした、というのが事故の内容だ。
水面への緊急不時着は極端に難易度が高く、他の選択肢が全て断たれたときの最終手段とされている。
その最終手段を取らざるを得なかった状況にもかかわらず、乗客乗員155名で一人の死者も出なかったことが、「ハドソン川の奇跡」と称される理由である。
この映画の主人公は、緊急着水を行ったパイロットだ。
いわゆる「奇跡」を起こしたのだから、天才パイロットが誰にも真似できない技術で成功させたのではないか、と思った人も多いのではないだろうか。
たしかに、彼は相当な技術をもっていたが、天才だからその技術を持っていたわけではないし、それだけが奇跡の要因ではない。
それは映画の描写から伺うことができる。
常にジョギングを欠かさず基礎体力を高める姿。
不時着水を成功させた直後、全く浮かれず一心不乱に乗客の救助に務め、最後の最後まで機内に残り逃げ遅れた人がいないか確認する姿。
そしてなにより印象的だったのが、乗客乗員155人、全員の無事を知らされた時に初めて見せた笑顔である。自らの仕事に対する責任感の大きさを表すシーンだった。
これらの姿から、おそらく、操縦技術も日々の訓練の積み重ねで身につけたのだろう。
そう、この「奇跡」は天才が起こしたものではなく、日々、自分のやるべきことを責任をもって積み重ねてきた、凡人が起こした「奇跡」なのである。
プロフェッショナルとはなにか?
NHKで放送されている「プロフェッショナル 仕事の流儀」という番組がある。
毎回、ある分野の専門家を1名とりあげて、密着取材を行い、その人物の仕事に対する姿勢、つまり「仕事の流儀」をとりあげる番組である。
ある回に、新井和宏さんという金融の専門家がとりあげられたことがある。
彼はかつて世界的に有名な投資銀行に勤め、10兆円近くにも及ぶ莫大な額の資産の取引を行っていた。
しかし、ある時大病を患いやむなく退職され、現在は社会の役に立っている会社に長期的な融資を行う投資信託を立ち上げて活動されている。
番組の最後に、毎回「プロフェッショナルとは?」という質問がされる。
その時の彼の答えはこうである。
「どこまでも謙虚に、誰よりも強く思い、そして日々の努力を積み重ねられる人、そうすれば、誰もいけないところにいけるかな」
この姿勢はハドソン川の不時着を成功させたパイロットと全く同じだ。
残念なことに、私たちのほとんどは天才ではない。
けれども、それはそんなに悲観することではないのではないだろうか?
たとえ凡人でも、自分の仕事に誇りを持って、日々小さいことを積み重ねていけば、いつか「誰にもいけないところ」までいけるのかもしれない。
目標ができても周りの人に言わない方がいいんじゃないかということについて
目標は人に言う?言わない?
みなさんこんにちはほりいです。
突然ですが、誰しも目標ってありますよね。
「夏までに5キロ痩せる!」みたいな割と小さめの目標から、「東大に絶対合格する」さらには「年収1億稼ぐ」みたいな大きな目標まで、人生のタイミングや人によって、その大小は様々ですが、全く目標がないって人はあんまりいないんじゃないでしょうか。
目標を持った時、誰しもが直面する問題があります。
それは、
- 目標を周りの人に言う
- 誰にも言わずに心の中にとどめておく
のどちらを選ぶのかということです。
これって結構人によって分かれると思うんですが、
個人的に、周りの人に言わない方が、より良い選択だと考えています。
そう考える理由を3つあげたいと思います。
目標を周りの人に言わない方がいい理由
人が何かしら目標を宣言したとき、その目標が高ければ高いほど、そして現状のレベルと目標のレベルが離れていればいるほど「お前にはできないよ」というようなことを言うやつがまず間違いなく出てきます。
直接言う人はいなくても、「お前には無理だよ」って思われてるのって雰囲気でめちゃめちゃ伝わってくるんですよね。
人って不思議なもんで無理って言われたり、思われたりするとほんとに無理な気がしてきて、ほんとは出来ることも出来なくなっちゃうんですね。
これが目標を人に言わない方がいいと思う一つ目の理由です。
「お前には無理だよ」って言われても、くやしさをバネにして頑張れる、たくましい人もいます。
そういうタイプの人は目標を宣言することで、目標達成できる確率は高くなると思います。
「じゃあいいじゃねぇか!」て言いたいところですが、個人的にはそういう人も、あんまり宣言しない方がいいと思うんですね。
なんでかっていうと、目標が「周りの人を見返すこと」にすり替わってしまう可能性があるからです。
最初は純粋に目標を達成したかったはずなのに、バカにされたせいで、いつの間にか、「バカにしてきたやつらを見返すこと」に目標が変わってしまうことってありますよね。
それはそれで達成感はあると思いますが、本末転倒なところもありますよね。
これが二つ目の理由です。
最後、三つ目の理由は、目標としていたものが実はそんなにしたいことじゃなかったと気づいたとき、引っ込みがつきにくいということです。
意気込んで目標を立てたものの、「あ、やっぱこれ全然やりたくねぇな…」ってなった経験ないですか?
僕はめちゃめちゃあります(笑)
そういう時、周りの人に言っちゃってると、やりたくないからやめてるのに、逃げたと思われちゃうんですよね。
そう思われるのが嫌だから義務感で頑張ってしまうみたいなことにもなりかねません。
やりたくないことをやるっていうのはしんどいのでこれは結構避けたいですよね。
目標を誰にも言わないメリット
メリットは、さっき説明した、周りの人に言うデメリットを避けられることです。
けれども、周りの人に言わないと、強制力がないから、すぐ諦めてしまうことにつながってしまうんじゃないか?とも考えられます。
たしかに、すぐ諦めることにつながってしまうと思います(笑)
でも僕は、それはそれでいいんじゃないかな~と考えています。
なぜかというと、すぐ諦めてしまうような目標は本当にやりたい事ではないと思うからです。
本当にやりたいことは、強制されなくても、自然とやり続けることができるはずです。
というよりも、強制されずともやりたいからこそ、それがやりたいことであり、目標になるんじゃないでしょうか。
以上、今日も最後まで読んでいただきありがとうございました~
笑い飯 西田のオヤジの話に学ぶ、悲しさを笑いに変える方法
「悲しさ」と笑い
松本人志が主催する「すべらない話」という番組は皆さんご存知だろう。
様々な芸能人が、各々「すべらない話」を持ち寄って話すというものだ。
すべらないと銘打っておいて、それでもなお爆笑をかっさらう話術は本当にすごい。
その派生シリーズに「ゾッとする話」という番組が放送されていたことがある。
その名の通り、芸能人がゾッとした体験談を話すのだが、本格的なホラーから、怖いけれども、どこか笑ってしまうようなものまで話の幅は広い。
個人的に好きな話は山ほどあるのだが、最近見た、笑い飯の西田の「オヤジ」という話がおもしろかった。
まずは実際に見ていただこう。(3分ないくらいだからすぐ見れるよ)
次に、この内容を文字に起こしてみたいと思う。
西田には公務員の真面目な父親がいた。これといった趣味もなく遊んでいる様子もない父親に対して、西田は何を楽しみにして生きているのだろう?という疑問を抱いていた。
すると、西田が高校生のある日、夕飯を食べているときに父親が突然、持っていた箸を机に叩きつけ、「全然おもしろくない!」とつぶやくのである。
その後、退職金を先物取引につぎ込み、トウモロコシを2トン購入。しかし、それもあえなく失敗し、家族からの信頼が地に落ちた。
以上である。
読者の皆様はこれを見て、おそらく「ゾッと」されたと思う。
私自身も書き起こしながら、思わずゾッとしてしまった。
そう、内容だけ見てみると、端から端まで悲しい話なのである。
しかし、西田が実際に話すとめちゃくちゃにおもしろい。
やっぱりお笑い芸人の話術はすごいんだなぁということだろうか?
もちろん、それも大きな要素だ。
彼らは話のプロであり、素人が真似しても同じレベルのクオリティを出すのは難しいだろう。
しかし、だからと言ってお笑い芸人がどんな話でも笑わせることが出来るわけではない。
内容に笑える要素は必須条件だ。
では、この悲しい話に含まれるおもしろさとはなんだろうか?
逆説的だけれどそれは「悲しさ」だと思う。
ちょっと振り返ってみていただきたいのだが、人の話す「楽しかった」話ってつまらないことが多くないだろうか?
自慢話がその典型だ。
「彼氏/彼女とどこそこに行ってきた」とか、「○○の大会で優勝した」なんかの話は羨ましがられることはあっても、爆笑をかっさらうことはまずないと言って間違いない。
それよりも「気にくわねぇやつだな」と思われることの方が多いだろう。
一方で、人の話す「悲しい」ことはおもしろい。
人の失敗談とか、人の不幸な話は悲しくてもやっぱり笑ってしまうし、自分の悲しい話も時間が経って振り返るとやっぱり笑ってしまう。
結局、何が言いたいのかというと、悲しかったことを溜め込んでメンヘラになるんじゃなくて笑い話にして昇華した方が健康的でいいんじゃないかっていうことだ。
以上ちょっと胡散臭いセミナーみたいになっちゃいましたが、読んでいただいてありがとうございました。