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“依存”しないなんてそもそも不可能

何かに“依存”していない人間なんて一人もいない

“依存”ってのはね、つまりは人間そのもののことでもあるんだ。何かに依存してない人間がいるとしたら、それは死者だけですよ。いや、幽霊が出るところを見たら、死者だって何かに依存しているのかもしれない。この世にあるものはすべて人間の依存の対象でしょう。アルコールに依存している人間なんてかわいいもんだ。血と金と権力の中毒になった人間が、国家に依存して人殺しをやってるじゃないですか。連中も依存症なんですよ。たちのわるいね。依存のことを考えるのなら、根っこは“人間がこの世に生まれてくる”、そのことにまでかかってるんだ。

 これは中島らもの「今夜すべてのバーで」の主人公であるアルコール依存症の患者が言い放ったセリフだ。

 

一般的に「依存症」というと、アルコール依存症や薬物依存症を連想する。

彼らはアルコールや薬物がなければ、まともな精神状態を保てず日常生活もままならない。

 

依存の対義語は自立である。

僕たちは、「自立」した個人はそんなものに依存しないと生きていけない人たちをバカにする。

 

しかし、そんな一見「自立」した個人のような僕たちも結局何かに依存して生きてるんじゃないか?という問いを投げかけたのが冒頭で引用した文章である。

人は依存せずには生きられない

「依存」の辞書的な意味は「他のものによりかかり、それによって成り立つこと。」である。

果たして、全く他のものによりかかっていない、「自立」という状態が可能なのだろうか?

 

答えは確実にノーである。

たとえば、生きていくためには、お金が必要だ。

それを得るためには必ず人との交流が必要であるし、それがなければ食料さえも手に入らない。

この社会は相互関係で成り立っているのだ。

それゆえ、完全に自立している状態というのはありえない。

 

しかし、アルコールや薬物の依存症は精神面の依存である。

社会のなかで完全に自立するのは無理でも、精神面での自立は可能ではないだろうか?

 

しかし、これもよく考えると不可能だ。

アルコールや薬物はもちろん、冒頭で引用した文章にある、金や権力も依存の対象になる。

 

それらに依存していないという人でも、何かの判断を下すとき、自分の知識や経験を活用する。

それも極端に言えば、知識や経験に「依存」しているとはいえないだろうか?

なぜなら、何かの判断を下すとき、自分の不安な精神が知識や経験をあてにしており、それによって下された判断は知識や経験によって成り立っていると言えるからだ。

これは「依存」の定義に当てはまる。

 

知識や経験に「依存」するのは、アルコールや薬物に依存するよりましに思えるかもしれない。

しかし、それも安心できるものではないだろう。

 

たとえ、知識が科学に裏打ちされたものであったとしても、それが絶対ではないことは歴史が何度も証明している。

正しい確率が高いというだけであって絶対というわけではない。

そもそも、自分が知識を正しく理解しているのかどうかも怪しい。

むしろ知識そのものが間違っているより、自分の理解が間違っている可能性の方が高いだろう。

 

また、経験に「依存」するときは、過去に依存していると言える。

しかし、過去正しかったことが明日も正しいとは限らない。

七面鳥は364日エサを与え続けられるが、クリスマスの日には首を切られてしまうのだ。

 

僕らは生きてる限り、何かに依存しないわけにはいかないが、これに依存しとけば安泰だ、みたいな対象もない。

それでも、自分なりに正しいと思うものを探して少しずつ前に進んでいくことが僕たちに出来ることなんじゃないだろうか。